2015年10月6日火曜日

『雪華図説』の研究 07 三 後記 (1)    

三  後   記

  以上二十二例について、『雪華図説』中の模写図と、それに対照する雪の結晶の顕微鏡写真とを比較することによつて、土井利位の模写図の大部分は極めて自然に忠実なものであることが分つた。雪の結晶の顕微鏡写真を撮影する場合は、気温が少くも零下三四度以下の低温にあることが必要である。良い写真を撮るには、零下十度以下の低温が望ましいので、十勝岳で私たちが撮影してゐる場合は、大抵零下十度乃至十五度の気温の時である。気温が零度以下でも比較的暖い時には、結晶は地表に達する前に昇華作用などによつて変化するので、吾々の観測にかかる迄に、既にその美麗繊細な形を失つてゐることが多い。虫眼鏡による肉眼観測の場合は、顕微鏡写真を撮る時ほど、気温の低いことは必要ではないが、それでも零下四五度以下の時が望ましいのである。土井利位の住居下総の古河のやうな所では、厳寒の時でも、夜か夜明けでないと一寸観測が困難であらうと思はれる。日中雪の降つてゐる場合は、下総などの地方では、気温が可成り高いことが多いからである。普通黒い布片、特に毛織物が望ましいのであるが、それをよく冷してその上に降つて来る雪の結晶を受けて、虫眼鏡で覗くのが一番便利である。土井利位も厳寒の夜更けの縁先などで、すつかり身体を冷しながら観測したものと思はれる。身体が温つてゐると、その輻射熱の為に結晶を覗くと消えて了ふのである。

  ところでかういふ雪の結晶の観測心得が、ちやんとしかも非常に要領よく、『雪華図説』の中にかいてあるのには少々驚いた。「西土雪花ヲ験視スルノ法。雪ナラントスルノ天。預メ先。黒色ノ八絲緞(シユス)ヲ。気中ニ晒シ。冷ナラシメ。雪片ノ降ルニ当テ之ヲ承ク。肉眼モ視ルベク。鏡ヲ把テ之ヲ照セハ。更ニ燦タリ。看ルノ際。気息ヲ避ケ。手温ヲ防キ。纎鑷ヲ以テ之ヲ箝提スト。余文化年間ヨリ雪下ノ時毎ニ黒色[ノ]髹器ニ承ケ之ヲ審視シ。以テ此ノ図ヲ作ル。」といふのであるから、現代の吾々が注意をするとしても、先づ此のくらゐの所であらう。髹器といふのは多分漆塗りの器のことと思はれるが、それだとすると大変巧い考へである。此の頃独逸で、雪の結晶の顕微鏡写真を黒地に白く出す為に、黒い石の磨いた面に結晶をのせて写真を撮つた人があるが、漆器の面の方が熱伝導率が小さくて石よりも良ささうである。この点では現代の科学者も土井利位に教へられる点があると感心した。

  之だけの注意をしてかういふ忠実な観測を長年月にわたつて続けることは、私たちの経験から見ても、可成りの労苦を伴つた仕事であつたことだらうと想像される。小さいながらも一城の主の趣味的仕事としては正に感嘆すべきものである。

  欧州の昔の雪の結晶の記録で有名なものは、英国の気象学者ゼームス・グレイシャーの模写図であつて、彼は一八五五年、即ち『雪華図説』におくれること三十二年に、百五十一箇の雪華の模写図を発表してゐる。彼の仕事は顕微鏡写真の発達する以前の雪華図としては、最も精巧を極めたものといふことになつてゐるが、公平に見て私は土井利位の『雪華図説』はそれに劣らぬ立派なものであると思つてゐる。もつともグレイシャーのものも、土井利位のものも共に、雪の結晶といつても、六花系統の平面結晶だけに注意を払つてゐる。実際に天然に観測される雪の結晶の中には、針状、角柱状、鼓状など色々珍らしい型のものがある。この角柱状、鼓状などの記録は、一八二〇年即ち『雪華図説』よりも十二年以前に、英国の捕鯨業者ウィリアム・スコレスビーによつて記録されてゐるので、その点ではいささか劣つてゐる。もつともスコレスビーは北極地方で之等を観測したのであり、我国では北海道ならばよく見られるのであるが、内地特に古河などでは殆んど降らないのかも知れない。それだとすると止むを得ないことであらう。


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